島津塚 島津豊久の墓
島津の背進法
 関ケ原の合戦 島津勢は死闘の最後を飾ろうと、敵の本陣を突いて奮戦、関ケ原に散る覚悟を決めながらも、義弘の今一度大軍に突っ切り、討ち死にとの決意に対し、豊久は、「ゴ難題ノ節、御身代リニ廻リ申スベシ。」との決意を固めた。
 島津家の残兵は百名の小勢ながら、密集戦隊を組み、馬章を折り、旗印を捨てて適中突破を敢行した。豊久は奮迅し、義弘の退口を切分け進撃した。ニ男又三郎は戦傷後戦死。鳥頭坂口で激戦し、井伊直政、松平忠吉、小早川秀秋、本田忠勝らの追撃を受けながら牧田に至り、長寿院阿多盛淳は義弘の身代わりとなって、ここに討ち死にした。義弘、豊久は少数の残兵とともに伊勢街道を南下し、多良郷樫原の地に至り、豊久は戦傷によって没した。荼毘所(墓)(上石津町樫原島津塚と称)及菩提所は高輪山瑠璃光寺にある。
 その後、義弘は時山越えで江州五僧、保月越えを経、多賀、高宮(中山道宿場)犬上川原着の経路をとって薩摩へ逃げ延びたと思われる。
                                                   上石津町史 より抜粋
現在西回り線が禰宜上から多良小学校横を通るルートで施工中です。ちょうど道の横に島津塚への入り口があります。
島津隊ゆかりの道の看板
画像をクリックすると大きく見やすいです。
文化財島津豊久の墓
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この奥に豊久公のお墓があります。
「島津中務大輔豊久公墳墓の地」の碑
平成9年鹿児島県知事 須賀龍郎書
何故か島津公の墓の左隣には稲荷神社が祀られています。九州の島津家にも、稲荷神社が守り神として祀られているとか
関ケ原合戦400年記念の碑です。
島津豊久のお墓です。
瑠璃光寺には「嶋光院殿忠道源津大居士神儀 慶長5年9月15日」と記された黒塗地に刻み込まれた島津豊久のものと伝えられる位牌があります。
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平成元年 発行 上石津教育委員会 「上石津の文化財」より抜粋
 慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦における西軍島津隊の勇猛果敢な敵中突破、背進作戦の時、島津義弘の甥の島津豊久、家老の阿多長寿院盛淳等のしんがり隊は、東軍の追撃隊と烏頭坂あたりで激戦を行い、長寿院盛淳は義弘の身代わりとなって討ち死にし、豊久はついに重傷を負った。重傷の豊久は少数の残兵とともに上多良まで落ち延びたが、深手のため樫原の地に至り自決した。享年三十一歳の若さであった。
 樫原の豪族、三輪内助入道一斉等がその亡骸を葬り、菩提所は当地高輪山瑠璃光寺にあり、また奥壇御厨子の中には、島津豊久の位牌も祀られている。
 瑠璃光寺裏の島津豊久の墓は、烏頭坂の激戦地とともに、関ヶ原合戦における島津隊の未曾有の戦場離脱を物語る大切な史跡である。